まず初めにタイ王国の概要、そして以外と知られていない部分も多い日本とのつながりについて説明したいと思います。
(1)タイ王国の概要
正式国名:タイ王国(Kingdom of Thailand)
首都 :バンコク(他に主要としてといては東北部のナコンラチャシーマ、北部のチェンマイ、南部のナコンシタマラートなど)
面積 :51万4千平方キロメートル。日本の国土の約1.4倍(耕地面積は約40%!)
人口 :約6800万人(2008年末段階)日本の半分強。
タイは東南アジアのインドシナ半島の中心部に位置する熱帯性気候の国です。その国土はタイを象徴する動物「象」の頭のような形をしており、象の頭の部分は大陸性の気候で南に伸びる鼻の部分は両側を海に挟まれているため海洋性の気候となっており、雨季の期間などに違いがあります。タイは西がミャンマー、来たが中国、東北がラオス、東がカンボジア、南がマレーシアと接しおり、歴史的に多くの民族の支配権が交錯した場所ですが現在は住民の約75%が広義のタイ人(ラオス人なども含みます)、14%が中国系、他に南部に広がるマレー系民族やインド系、そして特に北部に多い山岳少数民族などがいます。実際は中国系の血を引くいわゆる華僑系の人々の比率は多く、経済の中枢は華僑系が握っていると言われています。
現在行政区分はバンコク特別行政区と75の県から構成されています。国内はランナー王国の系譜を継ぐ北部、ラオス系民族の文化を持つ東北部、マレー系の浸透している南部(特に深南部)で言語や食事、文化などで違いが見られます。タイはその地形上(バンコクが東西南北を結ぶ線の交点に在る)、そして歴史上バンコクの持つ位置が相対的に高く、人口や政治、経済の中心がバンコクに一極集中することになっています。このため公称600万人強といわれるバンコク都の実人口は地方から流入してきた労働者により1000万人を超えていると推計されています。バンコクに継ぐ大都市でも第2の都市ナコンラチャシーマが43万人、チェンマイで25万人強と一桁以上の違いがあることからも如何に人口がバンコクに一極集中しているかが分かるでしょう。
宗教は仏教徒が全体の約95%弱。他にイスラム教が5%弱、さらに若干のキリスト教徒や南アジア系人種の信仰するヒンズー教などがあります。また仏教徒も含む多くの人々の生活に古来からの原始的な精霊信仰が強く根付いているのも特徴です。なお仏教は日本や中国などで信仰されている大乗系の仏教とは異なる南方上座部仏教です。このため同じ仏教とは言いつつもその信仰の形態にはかなりの違いがあります。
政体は立憲君主制国家であり、国王が頂点として国事行為を行うものの、政府機能の独立と三権分立は確立しており、政治・政策は選挙で選ばれた議会(上院下院の2院制)で決められ、そこから選出された首相を長とした内閣で運営されます。別に最高裁を頂点とした独立した司法機関があります。各県の知事はバンコク都が選挙によって選ばれるのを除けばすべて内務省からの派遣となっていますが、しかし下位の行政区域(区や村)では議員の選挙による選任が行われています。
タイの現在の国王はラマ9世王(プミポン・アドゥンヤデーッ王、即位:1946~)です。(歴史は次項参照)ラマ9世王は軍政による象徴化の動きも手伝ったものの、自らの才能と努力によって現在では多くの国民の絶大な信頼を受け、まさにタイを象徴する人物となっています。タイの国王の中で数少ない「大王」の初号を得た王でもあります。ラマ9世王は若い時からタイ国内各地を巡幸し、自身の持つ工学・建築・科学の知識を駆使して各地の開墾、治水、商品作物の生産を指導し、さらには雨の少ない地方のための人口降雨装置などの開発まで行っています。個人でもサックスを吹き、作詞作曲を行い、絵画をたしなみ、ヨットを駆る趣味人でもあります。ただ近年はお年を召したせいもあり公務については王妃、皇太子殿下、王女様たちが代行することが多くなっています。
(2) タイの歴史概観
現在タイの中心民族となっているタイ族は最近の定説では元々中国南部の広西省壮族自治区からベトナム北部にいたと考えられています。そこから南西に下りてきたタイ族はカンボジアのクメール族や現在少数民族になっているモン族の支配下にあった現在のタイ北部に進出し、徐々に南下していきました。その後13世紀には北タイでランナー王国が、中部タイ北部でスコータイ王国などが勃興し、スコータイ王国の第3代ランカムヘーン大王の時代(1277~1317)にクメール人勢力を駆逐して現在の国土に近い領域に勢力を拡大しました。
その後南に位置するアユタヤ王朝が力を持ち、政治の中心はアユタヤに移りました。(1350~1767)アユタヤ時代の16世紀前半、17世紀中ごろから後半は商業王国アユタヤの全盛期でしたが途中1569年にはビルマの攻撃でアユタヤが陥落、ビルマの属国と化す事件がおきています。その後現れたナレスワン大王(1350~1605)が独立を回復し、再びアユタヤ王朝は隆盛の時代を迎えました。日本でも良く知られている山田長政が活躍したのは17世紀初め頃の話ですが、すでにナレスワン大王のビルマ遠征軍に日本人の軍団が従軍していたという記録があります。しかし1767年に再度ビルマによって陥落した王都アユタヤはまさに跡形もなく破壊され尽くし現在アユタヤ歴史公園で見れるような惨状を呈してしまったのです。
アユタヤ崩壊後タイ人王朝を復活させたトンブリ王朝(1767~1782)に続いたのがトンブリ王の将軍だったラマ1世が開いたラタナコシン王朝でこれが現在まで続いています。19世紀にはいると西からはインド、ビルマを制圧したイギリス、東からはベトナムから西進してくるフランスの圧力によってタイもラオス、カンボジアでの宗主権を失い、西部、南部でも領地を手放し現在の国土に収まりました。かろうじてタイが植民地にならずに済んだのは英仏両勢力の緩衝地帯として認められたこともありますが、当時タイにあって近代化を進めた英主ラマ5世(1868~1910)の当時のアジアとしては日本に次いで進んでいた近代化政策によるものでもあります。明治天皇の同時代人であるラマ5世は王弟や王子を欧州各国に派遣してその国の制度を学ばせ、タイ国内に適用することによって中央集権化(日本の廃藩置県に相当)、内務省の設置、軍制の整備と徴兵制の実施、学校制度の整備などを進めました。
[* 写真はタイの近代化を推し進めたラマ5世王(若い時の写真)]
次のラマ6世の時代には第1次大戦に参加して戦勝国となることで欧米諸国との不平等条約の解消に努めました。しかしラマ7世の時代になると近代化の反動として西欧的な民主主義に触れてきた留学生たちが古い特権階級である王族から実権を奪う「立憲革命」を行います(1932年)。ここでタイは王制から立憲君主制へと衣代わりをしました。ラマ8世の短い治世(1934~1946)の後王位に付いた現在のラマ9世(1946~現在)ですが、政治の主導はすでに当時の議会を牛耳っていた人民党政権のものとなっていました。初期の人民党政権を担ったピブンソンクラーム首相はラタニヨムと呼ばれる国粋主義運動を行ったり(実際は経済を握る華僑系の排除運動)太平洋戦争時には日本と組んでの失地回復などを図りました。最終的にピブン首相の政治生命に止めを刺したのは陸軍で1957年にサリット陸軍司令官が行ったクーデターによりピブンは日本に亡命しました。サリットは自らの行動を「革命」と称していわゆる「開発独裁」を推進。結果として現在のタイの経済基盤を築き上げることになりました。またサリットは国王の権威の称揚を行い、ラマ9世にタイ国内各地を巡幸させるとともに「国王の下の政府」という今の形を作りました。この路線は概ね後続の政権に引き継がれるとともに、プレム元首相(現枢密院議長、首相在位:1980~1988)による軍政から民政へのソフトランディング路線へと進展、1988年には選挙によりチャーチャイ政権が誕生しました。しかしその後も政権の腐敗などに対する軍のクーデーターという形での干渉は起こっており、最近では2006年のクーデターでタクシン政権が倒されています。ただしタクシン政権の崩壊前から今に続く政治の混乱状況は旧来の支配層と新興財閥から政治の世界に入り新しい利権のラインを築こうとしているタクシン一派の争いという今までの政争にない局面になっており本格的収拾の道筋は立っていません。